その50

 見ているものを見ているといった表現は現実において成立するのか。見ているものがある。見るといった主体がある。その間にあるのが見られた物のイメージである。どこにあるのか。対象は処理されたうえで浮かび上がる象がある。浮かび上がった像を眺めることは可能か。そうやっているのか。ひと度、対象のイメージが投影された壁を眺めていることで私たちは一個のりんごを知覚するのか。知覚されたりんごはりんごの本性ではない。りんごを元にした主観的なイメージが私たちの知っているりんごである。

 ものそのものの本性は見えない。ある見え方でしか把握できない限り、なんらかの特性をもった見え方しか存在しない。ただ一通りの見え方しか存在しないのであればいいが、一個のりんごに対して見え方はいくつもある。りんごと私がいかなる関係にあるかの一表現形式がイメージとして私を通して現れる。私を通過することでできあがるイメージは私固有のものである。私は私の夢をみる。