その76

   どれほどの荒唐無稽でもそれがロゴスとなる限り、実在である。実在であるといったとき、それそのものが存在するのではないが、それそのものがそう描かれた痕跡は実在するといった意味での実在であり、触れ得ることができないかといえば、ドラゴンであっても、それは描かれて存在するのであり、その絵に触れればドラゴンに触れたことにはなる。ただそれでも考えないといけないのは、自ら自立的に動くドラゴンではなく、私たちの精神がうみだし、かつ完全に他律的に動かされるのがドラゴンの実情である。いくら動くといっても、自らで動くか、完全に誰かにしてもらったうえで動くことになるのか、それは陸と海ほどの差がある。陸は陸であって海ではない。同じ存在であっても、あり方の違いがある。同じ動くであっても、あり方の違いがある。

   ドラゴンは私たちの実在抜きには存在しえない。ドラゴンにとって私たちが母である。私たちの母をこの地球としたとき、地球があって私たちがいて、ドラゴンがいることになる。連鎖である。存在には、その順序があるのではないか。それがあるのはあれがあるからであり、あれ抜きでそれは実在しえない。他のなにもがあっても、あれがなければそれはないといった現象が個別に実在しているのではないか。関係性を考えていくことで明らかになる存在のあり方があるのではないか。存在のうちにドラゴンがいても、私たちの精神が生ない限り実在しないドラゴンは完全に私たちの実在抜きに存在しえない以上、ドラゴンはこの存在の中で完全に閉じた系ではないか。私たちの存在に引きずられた存在であるドラゴンから私たちを抜き去ってしまえば、ドラゴンは私ってしまう可能性がある。私たちであっても、その存在のうちのどこにでも存在できるわけではない。生存できる環境下にあって初めて存在できる私たちは、存在を選び抜いた上で実在する。ドランゴは自らでは動けないのでみずからで実存可能性を選ぶことはないが、私たちの側から選ばれたうえで実在していると考えられる。被選択的実在であるドラゴンは完全なる他律的な存在である。私たちの精神が存在のなかほどに映し出した実在的な影である。