その72

 何かが単体で存在する以前にあるのができごとではないか。私たちの認識し得ないことも含め、ありとあらゆるできごとが起こっている。できごととは起こったことであり、それが何であれ起こってしまったことから事実となり、存在の構成要素となる。存在とはその構成要素のことであり、停止ではない何もが運動することで存在を存続させる。存在が動くから存在するのか。存在はなにかしらの力により運動することで存続しているのか。存在そのものに力がある。その力は存在からのものか、存在外からのものか。存在外からの力と存在のうちなる力の関係性が他の存在との関係となって、その連鎖にあると考えるとき、ある一瞬を領域として設定するなら、領域内ではいかなる連鎖が起こっているのか。同時多発的な変化なのか、わずかにでも時差がある中で起こっているのか。一個のリンゴの皮を剥いだとき、起こったできごとを私たち野人強いできる領域に閉ざすなら、領域内ではなにがおこっているのか。

 私たちの認識はその領域とともにある。何かを認識したとき、領域が設定される。私たちが理解しているのは領域内での現象である。領域内現象について知っていることで、何かをすべて知っていることにはならない可能性がある。領域内のことならすべて知っていようとも、それでその事物の現象のすべてではない。私たちが何かを理解したときにできあがる全体性は、対象の全体性ではなく、認識それ自体の全体性に過ぎない。認識の全体性をそのまま対象に当てはめたとき、対象の全体性にそもまま合致するか。

 私たちは私たちの知っていることを知っているが、そのことが意味するのは、私たちに限定された対象について知っていることを事実と考え、その領域において生かされているといったことではないか。私たちは知り得ている。知り得ることを可能としたのは私たちの機能による限定性である。その限定性は領域的現象と合致する。現象は領域性をもつことで私たちに理解されるが、フュシスの側からすると非限定的であるはずの実在は領域を持たないと考えられる。