その74

 変動する領域がりんごの実存をすべて覆っているといった状況が実際に存在するのかいなか。存在の広がりにおいて、ここから先はまったくりんごとは関係ないといった部分があり得るのか。りんごの実存にまったく関係のない部分が存在の広がりのなかにあるのか。具体的に考えていったとしても、具体が絶対になることはあるのか。絶対でない具体は抽象的である。

 りんごが存在しないテーブルの上をかじってもりんごをかじったことにはならないが、りんごが存在するための原因がそのテーブルの上にある可能性はある。りんごをかじって味わうことができるのはりんごが存在するからであり、りんごが存在するためにはりんごの外部の適正が問われる。りんごの実在のためのりんごの外部の適正はりんごの実存を問うことになる。

 存在の広がりのなかにりんごがあって、りんごがその渦中にあれば存在できない物質がある。燃える炎のなかでは実在できないりんごはそれでも燃える炎とともにある存在の広がりに含まれた実在である。りんごが実在可能は空間はそれでもりんごへの影響を与えるのであり、りんごはいずれの場にいようと変化の最中にあり、それはりんごが内的な原因で変化するのみならず、外部の場の状況により、りんごは変化していくのであるのだから、いずれにせよ、りんごの外部はりんごを変化させる。問うべきなのは、いかに変化をするかである。

 炎のなかでもりんごが一瞬で消えてしまうのではない。少しの時間は炎のなかに実在し、その姿もある。空気中にあるりんごもその影響化にあり、変化していき、やがては消えることもある。そこにあるのは時間の長さの違いであるに過ぎないと考えられる。いかなる変化がりんごに起こったとき、その場を占める状況がりんごの実存と完全に関係ないと言い切れるのか。その場に置かれたりんごはその場に置かれた確かさがあっても、すでにりんごとして実在しない現象が起こる場であれば、りんごの実存を完全に遮断する場が存在の広がりに実在すると考えられる。

関係のあるなしで考えていったとき、りんごが実在できないからといっても、それでその場がりんごと関係ないと言い切れるか。関係を断ち切ること自体が関係を結んでいることで起こる現象ではないか。関係がないと言い切れるためには、存在の広がりとは関係のない場が存在する可能性について考えていったときに初めて捉えられる出来事ではないか。私たちの認識ではどうやっても追いつかない領域がりんごが存在する存在の広がりと関わりのない場として存在する必要があるが、私たちはそのことを可能性としてしか理解できない。永遠に可能性でしかない状況こそが求められるのではないか。