その78

   これはいつの時代にできた道具なのか、といった問いの存在は、存在する人誰しもに問いかけていると考えられる。ある人がある人に向けて問いかけたとき、問いは問うた人と問われた人のあいだにある。一冊の書物であっても、著者と読者のあいだにその書物の実質がある。

    物事はなにもがその中間領域的な実在であることの意味とは何か。私たちとは認識主体であり、認識する主体である何もが認識対象との間にある。認識結果は、認識しようとしたことの間にできあがる。私たちが何かを知っているとき、知っていること自体は、知ろうとした対象との間にある。知ろうとした対象は一個の原型ではない。動的な認識対象に対して獲得する私たちの知は存在の広がりのなかほどにおいて構成される部分である。私たちの認識は動的である場合と静的である場合がある。認識そのものが存在そのものを捉えるとき、その運動をなぞり続けることが必要である。その必要がないとき、記号的な認識が静的に実在することもある。あれがりんごだと知っているとき、それは記号的な静寂にある認識であるが、いかなるりんごであるかは、動的であるのだから、そのりんごの運動をリアルタイムでなぞってこそ、純粋把握が可能となる。存在に対する認識は存在の運動をそのまま捉えてこそだが、私たちが存在を捉えるとき、それぞれの要素にわけて捉えるなら、私たちはりんご一個であってもその実存性を把握しきっているだろうか。りんごがいかにあるかはりんごの外部と即、その関係にある。りんごがいかなるかはりんごの外部と直結した状況であり、りんごのいかなるかを知るためにはりんごの外部を知る必要が同一な次元で必要とされる。りんごの外部はりんごの内部であり、りんごの内部はりんごの外部である。りんごとは、私たちにとってその幻影がりんごの実存性のうちに閉ざされた運動として実質的な振る舞いをしていることそれ自体ではないか。