その117

 水が水であることは水であることに押し留められているのであり、エネルギーが水の性質を持った姿でいることを意味するのではないか。万物を万物たらしめているのは、エネルギーの流れであり、その流れがどうなるか。流れ方が存在に形を与えているのか。存在に形があるのはエネルギーの流れによるものか。りんごがりんごであるのは、りんごであるためのシステムが原因であると考えられるが、りんごがりんごであるためのシステムの原因は何か。物質レベルでのシステムの存在をどう考えればいいのか。エネルギーの流れを制御するシステムが存在のすべてを捉えて、張り巡らされているのか。存在のすべてに張り巡らされたネットワークのなかでりんごであったり、バナナであったりするのか。かぼちゃになるためのシステムがどこかにあることでかぼちゃはかぼちゃになる。システムはその促進のための原因がいる。種に潜んだシステムが拓かれていくためにはシステムの外部に要因がある。システムの外部はシステムにとっては偶然的ではないか。システム内部には必然があると考えても、システム外部はそのシステムにとっては偶然的でしかないのではないか。何かの実在は存在のすべてに張り巡らされたネットワークの網の目のなかにある。ネットワークはそれでもすべてがつながっているのではないのではないか。つながっている部分とそうでない部分がある。すべてが繋がってしまえば、存在はその動きを止めてしまうのではないか。存在が動くのは繋がっていない部分が残されているからではないか。であれば、存在は繋がりを指向して動いていると考えられる。