その135

 あらゆる異なったりんごについて個別に把握することでしか、りんごの総体を捉えることはできない。ひとつとして疎かにできない。りんごとは何かを考えたとき、個別のりんごのありようの総体からどうやっても抜き出すことのできない何かがあるなら、それをりんごの本質と考えることはできる。本質とはそれ抜きには成立しない何かのことではないか。りんごがりんごであるために必要最低限のことは何か。存在の中ほどで他に何かではない、それがりんごでしかない事実は具体的に何によって成立するのか。あらゆるりんごに備わっている要素があるのか。その要素は他の果物にある可能性がある。であれば、りんごの本質と考えることには違和感がある。では、関係性か。つまり、要素ではなく、ある関係性にあることがりんごをりんごたらしめていると。しかし、どんな関係性が内在することでりんごがりんごであることを保証するのか、はっきりとしたイメージはない。

 りんごではないものはりんごではない。バナナはりんごではない。りんごであるものはすべてりんごである。りんご以外のものがいくつも存在するなかでりんごはりんごであることを全うする。なぜか。そこにあるのは関係性の持続ではないか。存在の流れのなかで、りんごはりんごであることを継続する。りんごであることの継続はそのりんごとして生じた関係性を持続することにあるのではないか。いかなる関係性であればりんごなのか。