その137

 りんごのための雛形があって、その枠組みなかで展開されるのがりんごだとして、その雛形はどうやって実在したかを考えなければならない。それはなかった。なかったものがあるようになった。そのことはすべてにあてはまる。現在より先の存在はすべてがどこにもなかったものだ。なかったといえど、その原因はある。現在に原因があったうえで、その先の未来がある。未来に存在するはずのりんごはいつしか、その原因を存在のなかに持つ。そのまた原因はあるのか。100年後の存在の原因が現在にあると考えることは可能か。100年後にあるりんごの原因を現在に見出すことは可能か。現在があるから未来があるのは事実だが、どんな現在か、それは認識しきれない。ただそれでも実質的には規定された運動ではないか。現在とは流れの渦中におけるカオスがその実質ではないか。それとも私たちの認識を超越したうえでの決定的な実在か。カオスがカオスであるのは、認識上の話であり、実質的に現在がカオスであるかどうかは分からない。物の運動を子細に検討していったなら、現在がカオスか秩序にあるかが定かとなるか。いかなる現実にあるかはつねに認識的なものであるが、認識を超越した現実が知られずにある。そのいかなるかはまったく分からないまま実在することがある可能性はつねにある。知っている部分と知っていない部分により構築されている存在のただなかで生きている私たちは、存在のすべてについて把握していないのであり、その意味とは、私たちの認識は全体に対する部分でしかないことになるのか。