その129

 認識とは考えることなくとも所有される。何かを捉えるとき、対象をそのまま受け入れることは可能ではないか。常にとはいかない。しかし、一個の石の存在を絶対肯定したとき、石と私のあいだには、石のありようが私との関係性のうえで生じる。存在は関係性それ自体であり、私の認識もまた存在の一端である。石の唯一の状況が認識されることは実在しない。つねに関わりのうえで生じる認識は、認識といった実在の本質において、それは単一ではない。認識とは、認識しようとする対象の実在とともに、認識主体が実在することで初めて実在可能となる。認識主体はそれぞれ個別の機能を宿すのであるから、あらゆる認識は認識主体の機能に依存する。認識対象は一個であるとしても、その認識は個別の角度から行われる。変化の運動にある認識対象に対して、認識主体は個別の角度からしか把握できない。一個の認識対象を同一の瞬間にあらゆる認識主体が把握可能でないとき、認識はその初めから齟齬がある。一個の認識対象はそれそのものとして単独で実在し、それは真実であるが、その真実をまるのまま把握することは、あらゆる認識にとって不可能ではないか。いずれもがそのものとして成立しているとき、あらゆる認識は、個別の領域内での成立であり、それは真であるが、関係性の上での話である。