その111

 何かが物質的であっても、その事実をもとに考えていったとき、その認識主体である私たちにとっては、その非物質性もまた現実となるのではないか。認識される何かがつねに物質的であり非物質的であるとき、私たちは触れ得るものを触れ、触れ得ないものをそれでも認識として所有する。私たちは触れ得ないものであっても、認識として獲得することができ、そう思っていることが外部に明示され得ないとしても、事実として実在する。意識の中を巡っている一切が外部化されることはないが、外部に明示されないからといって現実ではないのではない。内部に閉ざされた事実が個人のうちから一切外部化されることはないとしても、認識の一端となる。存在とはそれがあるがままあることであり、認識の遡上にのぼらないと感じられることも存在のうちにある。知り得ていないことを知っている可能性はつねにある。存在することが根幹にあり、それは存在しないことを完全に拒絶する。あるものだけがある。