その622

 存在するそのすべてのすべてがいかにあるか、明らかとなるはずはない。いや、存在するものとは実際において、いかにあるのか。かつて存在していたものは今現在においてはない。いや、ないのかもしれないし、あるのかもしれない。どこにあるかはっきりしなくとも、あるかもしれないといった可能性は消え去らない。われわれは実在する限りにおいて、可能性と戦う他はない。事実とはつまり分かっていることであり、世界は分かっていることだけでできているのではない。可能性で満ち溢れている。認識内において、あらゆる可能性が消滅したとき、ひとまず認識はその完成となるのかもしれない。いや、それは違う。可能性とは考えうることにおいて限定されたことに過ぎない。次の瞬間に新しい可能性について考える可能性を否定することはできない。この動的な世界において、完成したものは何をもって完成したのか。