その613

 事実は存在しないわけではない。事実とは、信仰によってできあがる。信仰によって下支えされていることは、そのすべてが事実ではないか。永遠普遍に正しいかどうかが事実の意味ではない。各人によって信じられていることのすべてが事実である。あることについて、それを正としても、非としても、そのいずれもがこの世界に確かに実在する信仰された事実である。事実がそのまま世界で起こっていることそれ自体であるか、それを証明する主体は何か。事実がほんとうに事実であるかどうかを証明する主体は実在しないのではないか。そのとき、つまり我々の認識内で起こっていることの証明主体が不在であることを意味する。認識内で起こっていることはそれ自体事実だが、その事実がほんとうに世界それ自体についてであるのかについて証明する主体が認識内にあるかどうか。認識内の確証を証拠立てるのは、運動ではないか。ある数式に数値をあてはめたとき、それが指し示す現象、あるいは世界がそのように運動するとき、認識は完全に世界と合致したことになるのか。認識をほんとうの事実にするのは世界の運動性ではないか。世界の運動性によってわれわれの認識は証拠立てられる。運動性によって証拠立てられた認識はその時点では信仰ではない。