その601

 メッゾの領域にあるりんごは、その始まりをひとまず、そのりんごを構成する粒子にあるとする。さて、りんごを構成する粒子は、その始まりがどこにあるか。りんごを構成する粒子はいやおうなく時間のうちにある。時間をわずかに経過するか。長大な時間を経過するか。りんごを構成する粒子は、それがなんでもいいがとにかく何かが存在するようになった世界の何か、あるいはすべてが原因だろうか。であれば、現在においてあるりんごの原因はそのりんごを構成する粒子の始まりにあると考えられるが、そもそも世界に始まりがあるのかどうか。世界には始まりはなく、つまり、無は存在せず、つねに何かがある。常に何かがあるのであれば、いや、常に何かがある世界では、それを基盤に何かが生じたり消えたりする。そんなイメージをもつことができる。無があって、その向こうに世界が始まったなら、すべての始まりがそこにある。そんな気がする。翻って、常に何かがあって、完全なる無が実在したことがないのであれば、何かがあって、その何かはなくなり、無となる。それはそれが完全になくなることを意味するだけで、世界の全体が無となることを意味するのではない。世界の全体が無となることと世界のかけらが無となることには大きな違いがある。いや、大きな違いというか、絶対的な違いがある。世界のかけらは無となるのかどうか。かけらは常に姿を変えてあるのかどうか。変化だけがあるとしても、どんな変化か。存在の根本なる何かがこの世界には永遠になくなることなくありつづけ、それが姿を変えていく。そんなイメージをもつことはできるが定かではない。りんごがあって、そのりんごがあるにはその関係する領域があって、それは世界の全体には達しない。そのとき、りんごが消滅すれば、この世界には無のかけらが発生したことになる。この世界はであれば、幾つもの無のかけらを抱え込んでいる。