その593

 言語状態と現実は常に同一ではない。言語状態だけがあって、現実はその状態にないとき、言語状態は無だ。ある状況に対してとった言語状態がその状態と合致するのではないとき、その言語状態はたとえば小説などの創作に用いられ、それ相応の現実となる。人間が文化として創造する言語状態は仮想現実であるが、そうした仮想現実はわれわれの意識のうちで確かな現実となる。むろん、それが作品として完成されたときにおいてだが、言語状態が合理的な範疇にないとき、それでもその状態があり、言葉にはその意味があり、言葉がとった並びにおいてその意味が発生する。たとえ、理解可能ではない姿でその言語状態があっても、その不合理において、不合理的な意味がはっきりとある。感覚的に捉えることができる。文字通りというのではない、受け手の感覚による意味がそこには生じる。

 不合理な言語状態はそれでも実在し、そこから何らかの感覚を受け手は得る。不合理な状態はそれだけでは意味を発しないのではないか。不合理な言語状態は、それと向き合う何者かによって、その意味をもつ。合理的な言語状態は広くその意味を認識されるが、不合理な言語状態は、各人の感覚によってその意味が発生する。まったく曖昧な何かに対して、感覚が作動することでそれぞれの意味が発生する。その意味が具体的に言葉になることがないかもしれないが、ある感覚がそのようであることはひとつの実在であり、そのようであることのすべてが言葉にならずとも、そのようであることそれ自体は事実だ。そのようであることがいかようであるかは言葉として実在せずとも事実だ。事実とは何か。