その151

 認識とは存在そのものを完全と捉えたものであるとしたとき、認識は常に動いていないといけない。動いているままの認識は認識として成立するだろうか。認識とは私たちに理解されて初めて意味を持つと考えたとき、存在の運動をそれ自体として捉えることは可能だろうか。存在と言ったとき、どこかで区切らないと認識の領域ができあがらない。認識とはそのすべてが断片でしかないとき、存在それ自体を捉えたことになるのか。存在のある部分だけを取り出して認識としたとき、その認識はその部分を完全に捉え切っているだろうか。認識に置き換えられた存在が運動しないとき、存在の運動は捉えられていないと考えられる。そこに一個のりんごがあることを認識するときに、一個といった認識がある。それ自体は認識として間違っていない。個数については、テーブルの上など、ある領域を設定したうえでなら、静止した認識がその成立となる。認識とはその個数においてでも、領域内存在ではないか。認識しれ自体が成立するとき、その完全さがその全体のようにしてあるが、それは認識がその領域を定めたことによる。どこで成立するかを考えるのが、認識の根幹にある。どこでも成立する認識は普遍と呼ばれるが、それもまた領域を設定した上でのものであるとき、普遍的認識とは存在のすべてを覆うものではなく、断片的な認識における普遍である。