その140

 認識されないことのうちに私たちの生はある。生きるためにそのすべてを認識しているのか。言葉や数値になっていることだけが認識ではないのか。存在がそこにあるために必要な条件が揃っていることで、私は生きていられるはずだが、それらの一切を認識しているのだから、生きていることができると考えるべきなのかどうか。

 生きていることにまつわるすべてを知っているのか、知らないことがあるにも関わらず生きているのか。知らないのは自覚的でないに過ぎないのか。無自覚であっても、情報として処理を行っているのだから、知っているといえば知っていることになるのか。知っているとは実際、何を意味するのか。ひとつに決める必要はない。言葉になっていることを知っているとともに、言葉にはなっていないが、身体がその処理を行っているのだから、私はそのことを知っていると考えてもいいのではないか。私とは何か。自覚的なことばかりが私を作っているのではないのではないか。私は何もかもを自覚的に知っているのではない。誰かにとっては当然のこととして知っていることが事実であっても、知らないでも生きていける。知っているから生きることにそのまま役立つわけではない。言葉になっていないことも実質的にその処理に追われているのが現実であり、そのこととは感覚の理解を意味しないか。感覚処理により生きていることができているのではないか。複雑な社会を生きるためには言葉になっていることを知らないといけない側面があるが、それ以前に生きるために私たち生命は感覚処理に追われているのではないか。感覚処理とはそのまま思考ではないか。言葉で考えることばかりが思考ではない。