存在するものごとで出来上がっているこの世とは、そのすべてをして一個の全体と考えていいのか。認識内の存在と認識しきれない何かしらが存在の内部にあるとき、存在の全体とは、その広がりがどこまであるか、わからないのであれば、全体とは何か。在ると思う心のうちにしか、存在の全体はないのか。どう思おうと、在るものはあるが、いかにあるかについて、知り得ないとしても、存在とはひたすらに在るか、ないかであれば、あるだけあるものとはその全体があると考えられるが、全体とはその停止ではないとき、存在の運動をその全体として捉える何かが必要になる。存在の全体を俯瞰して捉えることを可能とするためには、認識の運動が必要となる。動いているものを動いているまま捉えることとは、認識自体が運動それ自体でなければならない。認識の運動それ自体が仮に存在するのであれば、それはそのまま存在の運動ではないか。