その152

 存在の全体がその運動としてあるとき、その全体の運動をそのまま捉えたとき、それこそがまさに、認識の全容ではないか。認識の全容とは、存在そのものよって表現され続けているのであり、私たちが把握しようとすることで生じる認識は、存在以前でも以後でもない。存在そのものが認識そのものであると考えられるが、認識が存在の全体に到達することがあるのか。あらゆる認識は断片でしかないとき、その総体を存在の全体としたとしても、そもそも、その認識が存在の全体を捉えているかどうかの判断が難しい。認識の側が存在の全体を構成するのではない。存在のあり方がまずあり、それ自体がそのまま存在であるが、存在の広がりについて、その全容の把握はできない。認識の当てはまる領域があり、それが存在のすべてだといった確証はどうやっても持てないのではないか。全容のある存在に対する認識の全容が完全に合致するかどうか、その判断をいかに持つことが可能か。可能性でしかない全体性について、私たちは確証をもつことはできない。できないが、可能性としてなら理解される。これですべてである可能性なら算出されるが、絶対であるわけではない。