その153

 存在の全体に対して、時間軸を投じたとき、すでに消え去った存在もある。消え去った存在の細部まで知り尽くすことはできない。おおよその枠組みなら過去に遡って判明することはあるのかもしれないが、その枠組み内における細かなあり方までは判明しない。過去そのものを現在において捉え直すことはできない。失われたものはもはや元に戻らない。認識がその細部にわたってのことであれば、人類はその初めから、人類のいなかった時代の存在について、誰も直面したことがなかったのだから、知る術がない。可能性としてならいくらでも論拠をあげることはでき、それがそのまま当てはまっていることも考えられるが、その確証を絶対的に獲得することはできない。存在に対する認識は可能性としてしか判明しない。あらゆる事実は限定的であり、予め設定された領域内での事実であり、それはそのまま間違っていないとしても、それは私たちの属性である認識機能をもとにした、その領域内での話であり、実際はそれ以上の広がりを持っているのが事実ではないか。事実として知ったことは、存在を肯定した結果だが、そのためには、その他を遮断する必要がある。肯定は否定を含む。否定それ自体を肯定した結果が、肯定の全容ではないか。何かを否定しなければ肯定はできないのではないか。

 すべてに対する部分である認識の根幹には、限定合理性がある。合理性が成立するのは限定することによる。存在はその運動にあり、限定することで、切断することはできない。存在の循環が続いている状況のどこかを切り取ることで認識されるとき、その合理性は言語の法則にもより、また、存在がその言語の法則に当てはめたときに合致する偶発性がそこにはないか。存在そのものが合理的にあるか否かは明らかではない。合理的であるかどうかは、言語の法則にあてはまるかどうかで、それがそのまま存在のありようの全貌とは言い切れない。そ