その147

 あるがままある存在の自然とは、その運動ではないか。存在のあらゆる運動が自然であれば、自然ではないものとは何か。人間の活動により生じる物質は人間の運動の結果であり、自然の産物と考えることはできる。樹木の運動がもたらす何かはすべてが自然の産物であるとき、人間の運動が生産する何かだけが非自然であるというのは、どういった考えがあってのことか。私たちは存在の中に非自然な領域を生み出し続けているのか。そうであれば、人間の活動はいつか途絶えるか。自然と非自然を含んだありかたがあるがままのピュシスとしたとき、ピュシスはすでに自然だけを含まない。存在にとっては自然であることも、野性的な意味での自然とはその意味が異なる。人間がいなければありえなかった合成の結果うまれた物質が存在することはそれでもあるがままだが、その存在はほんとうに非自然なのか。私たちの実存に関わる問いであり、私たちとは何で、自然にとってはいかなる実在なのか。私たちの存在は自然であってもどこか非自然性を抱えているのか。人間が生んだもののすべてが自然の運動の結果だとどうして考えることができないのか。私たちは実存的に自然な運動をしないのか。であれば、私たちの行為とは何か。非自然的な活動なのか。私たちは非自然的な活動をすることができるのか。