その141

 言葉に置き換えられたことがあるものの、つねに論理的というのではない。非論理的であっても、言葉にはなるし、相応の意味がある。現実の複雑さが論理的であるばかりではないとき、非論理的なことこそが、現実的であるといった側面がある。論理的なことがむしろ非現実的であることもある。全体としては論理的なのか、非論理的なのか定かではないとき、存在を在らしめている力とは何か。存在を全うしようとする原初の力がエネルギーとすれば、エネルギーとは存在がカオスにあることで生じるのではないか。摩擦熱がエネルギーを生み出すと考えられないか。多である存在は相互にぶつかり合うことがその本質にあるとき、存在のありようは摩擦の現象による変化なのか、エネルギーの働きかけによる変化により摩擦が起こっているのであり、エネルギーが先でもなく、摩擦が先でもなく、摩擦とエネルギーの循環が存在を在らしめていると考えられないか。存在が動くためにはエネルギーがいるが、エネルギーは摩擦によりもたらされると考えるなら、原初何かがあったのか。摩擦があるためには何かがなければならないが、何かがあるためにはエネルギーがいる。エネルギーが存在するためには摩擦がいるとき、摩擦のための存在が必要だが、そのためのエネルギーが必要となる。始まりが定まならないとき、私たちは永遠を思い描くのだろうか。