その144

 何も存在しない場があることが存在の運動を可能としているとき、何も存在しないのか、何かが存在するのか、その間があるのではないか。存在するかしないかの二元的な実質ではなく、存在の運動が行われるにあたって、その運動自体がもたらす物質の状況がこの情報空間に広がると考えたとき、情報空間における情報のあり方自体において、あるか、ないか、ではない何かしらの状況が情報化されて実在するのではないか。

 無は情報か。ゼロが情報としての価値をもつとき、無もまた情報としての価値をもつのではないか。ゼロとは何かのゼロであり、無とは有に対しての無である。何かがあるとき、何かがない。何かがないことのなさの実在について、たんに私たちにとって明らかではないことだけではなく、存在そのもののあり方において、それ自体がそれ自体を捉えようとしたときに、情報空間上に存在するようでいて、明白ではない存在の運動があるのではないか。存在それ自体においてすらも把握しきれない運動が情報空間において起こっていると考えられないか。次の瞬間が明確にあるのではないとき、私たちのみならず、その物それ自体でも、他の存在からしても、情報空間上において捉え切ることのできない何かがそれでも確実に実在していると考えたとき、存在はその余白を併せ持った実在ではないかと考えられないか。