その43

 りんごが一個、内的な循環にある。内的な循環は循環の経路がシステムとして純粋な内部性を保持していると考えられるが、一個のりんごの内的な循環経路が混ざりけのない実質で出来上がっていると考えることは早計ではないか。りんごをりんごたらしめる内的な循環経路があっても、その成立には外部がまったく同時に関与していると考えられる。りんごの表皮から隔たった箇所にあるりんごの外部はりんごの内部の成立のために、関係していると考えられる。隔たりは、ある意味における断絶に過ぎないのではないか。別の意味では隔たっていない可能性がある。

 何かがあれば意味の領域内にある。物質と物質は相互に反応系であり非反応系でもある。最終的に事物は意味に還元される。意味のつながりにあるもの同士が別の意味ではつながっていない現象がある。関係性とは事物の意味の接触性についての模様である。煎じ詰めれば存在はいかなる意味のつながりが描かれているかではないか。意味の運動がこの存在のいかなるかを描いている。私たちの認知機能からくる存在の外観から判断される切断は意味を持つものの、外観的な切断が意味の切断ではない。私たちの持つ特性からくる外観性とその切断により断ち切られる意味とその姿とは一切の関わりを持たない非切断性がある。外観のよりか深い存在が意味である。何かがあれば意味をもつ。何かがないことでさえ意味をもつ。なぜなら、私たちの実存が故である。私たちはその機能で恣意をするが、恣意する領域が意味の存在についてとともに、意味の不在についても恣意をする。物質的にはそれはない。しかし、その意味についてなら考えられる。考えた痕跡は確かな存在である。私たちは推論をする。その痕跡はこの情報空間に確実さをもって書き込まれることになる。言葉に置き換えられようとも、置き換えられまいとも、思考されたことは、この私たちの一人ひとりの精神が情報空間における実質であるがゆえ、かりに無自覚であっても、情報が書き加えられ、その結果がある時、新しい変化を生む縁となることがある。明文化されていないからといって意味がないというのではない。存在はすなわち意味である。意味の震えが存在のすべてを席巻しているのではないか。