その38

   流れの一部である私が流れていることに間違いはない。私が止まっているような錯覚を覚えることがあるのは、私たちの認識機能による。何かを認識することとは、対象をいったん止めるようなことであるから、私たちは止まった物事のうちにいるような錯覚を覚えるのではないか。一瞬があると思うのも、認識機能の存在に私たちが生かされているからではないか。

   私たちは断言するが、断言したことで認識の全体性ができあがった錯覚を得ることがないか。こうだといったとき、それでしかないことを意味するが、全体には達していないはずだ。全体は私たちの認識を超えた存在であり、それは、一切が流れであることから明らかだといえる。流れを止めることができないのに私たちは認識しないといけない。認識が対象と止めることを意味するとき、私たちの認識が止めた存在以上の広がりが必ず存在している。認識された存在と全く同一の時刻にその存在以上の広がりがある。