その41

 存在の本当の姿であるはずのフィシスが私たちにとって影であることと同時に、存在への私たちの眼差しである認識のイデアもフィシスからすると影である。私たちは存在に対して、その影としての認識しか持てない。いかなる存在もその存在の影しか認識できない私たちは、目の前にあるりんごの影を見ているのであり、思考して捉えたのもまた、存在の影である。りんごは確かに純粋に存在している。その純粋さをそのまま捉えることのない私たちはさまざまな思考を巡らせ、認識を拵えようとするが、拵えた認識はその対象にそのまま合致することはない。合致するわけがない。対象は常に運動の状態にある。認識がそれに合わせて変化するならいいものの、では、対象としたものの要素をすべて遡上にあげられている確証はあるのか。対象としたものの全てとは、その対象の内部性がそのすべてではない。対象の外部と考えられる要素が即、対象の内部性でもある。まったき同一の時刻にそうである。りんごとはりんごであるが非りんごを同時に含んでいる。りんごの姿はりんごの内部性が原因としても、りんごの内部性はりんごの外部により構築されているのではないか。りんごが存在するために最低限必要なことは、りんごの内部にだけあるのではない。選択的な実在である万物は存在可能な場を選んだ上で実在しているのであり、りんごの内部性が実在したとしても、実質的に、りんごの外部である環境が適していなければ、いくらりんごの内部性が実在しようとも、即刻、消滅などする。りんごがりんごであるために必要なことはりんごの内部性を生じされるりんごの外部がまず先に必要なのではないか。環境が整ってこそりんごはりんごであることができる。私たちが生まれるのも外部環境がまず先に整っていたことが実存的な原因に考えられる。