その32

 合理性とは枠組みであり、領域であるのか。部分である合理性とは全体に対していかなる反応をするのか。全体とはその運動である。私たちの認識の領域の外につねに存在するのが世界である。認識は合理的にしかなされないのか。合理的な認識は、私たちに領域をもたらす。りんごがひとつあることのように、私たちの認識が合理性といった論理をもって成立する。りんごが一個成立しているのと、私たちが合理的な認識をもつことは同一の現象か。りんごが一個あることが合理的か否かは定かではないが、私たちにとって把握可能な系として存在することがりんごにも認識にもある。りんごは私たちに把握可能だが、りんごは私たちに把握可能であるためにその系を定めているのではない。フュシス的な実在であるりんごは偶発的に私たちに把握される。私たちの合理性もまた偶発的な構築系ではないか。試行錯誤の結果うまれたのが合理性ではないか。ああでもないこうでもない。しかし、これならいい、理解できるといった合理性は合理性といった枠組み以前に私たちの把握機能が原初的な実在として存在するが故のこと。世界が合理的にあるのではなく、私たちの機能が合理性を定めるのではないか。存在のすべてにとっては合理的であることとそうでないことがある。存在が合理的であるといった謂は、私たちにとっての謂を加えたうえで、条件づけられたものである。存在はそれがあれば条件をうむ。私たちの存在はある条件下にある、いわば選択的な実在が私たちの本性ではないか。毒を食ってはいきていけない。周囲の環境のうちから選び抜いたうえでその存在を全うする私たちは原初的に条件づけられている。