その39

 私たちとは認識する一個の滞留する姿ではないか。思いイメージを描く私たちは、存在について、思弁を重ねる。存在そのもののすべてが収まる記述が用意されることはない。私たちの思弁的な姿をもとにした存在のありようのすべて以上の広がりを存在はもっている。私たちが知っていることがあれば、そのすべてである。そのすべてよりかわずかの広がりがあるかもしれない。わずかである。それ以上の広がりが存在にはあるはずだ。

 存在の存在の仕方への懐疑に終わりがあるのか。何かがあることは常にいかにあるかだ。いかにあるかがそのもの自体である。りんごがあるは話の始まりに過ぎない。どんなりんごかの説明が欲しいところだが、その説明はできない。どんな説明も時間を要するが、どんなりんごも止まっていのだから、運動の続いていく姿が実質である。無限に分割して行っても、すでにべつのりんごであるのだから、りんごの何の瞬間を取り出そうにもとりだし不可能なとき、面と向かっているりんごのいずれもが完全な把握とはならない。私たちによるりんごの認識とりんごそのものには距離がある。りんごそのものは流れであるが、認識が流れのままであることはできない。数値に置き換えられた時、それで完全か否かへの問いには答えようがない。数でリンゴの全てが表現できるか否か。表現しきったならその確証をどうやって持つことができるか。数と数の間には数がある。その間にもまた数があり、そのまたさらなる間にも数があるとき、数とはどこかで区切りをつけられた結果ではないか。結果がないと私たちは認識できないのではないか。認識したからといってりんごを把握したことにはらないのではないか。