その40

 存在とは運動の姿であるとき、運動そのものの広がりの仕方がたとえば一個のりんごである。りんごが一個ある状況について何が言えるのか。あくまでも私たちの側からの認識に過ぎない。りんごのいかなるかは、りんごの他の何との関係にあるかで異なる。私たちにとってのりんごは私たちの範疇におけるりんごである。私たちの範疇にあるりんごを私たちはりんごと呼び、認識している。認識された結果はりんごのフュシスではない。りんごのフュシスは認識され得ない存在である。

 りんごはりんごのフュシスを底に存在する。りんごはそのフュシス以上の影を持たない。存在の根源であるフュシスは、私たちにとっては影である。私たちの認識するりんごにさす影がりんごのフィシスである。影であるが故に、それは存在するが影としてしか浮かび上がってこない。りんごのフュシスをみようとしたとき、私たちには影としてしか見えてこない。りんごの影はりんごの実質ではない。りんごのあるがままを知らない私たちはりんごについて考える。りんごとは何かと考える必要はほんとうならない。りんごはりんごである。それ以上のものではないが、私たちはりんごのフュシスを把握できないことで、りんごとは何かを考えることになる。考えてたどり着いたりんごの姿は、りんご本来の姿ではない。本来のりんごではない、思考の結果認識されたりんごの姿はりんごのイデアであり、りんごのフュシスを元に浮かび上がった幻影である。

 私たちにとって、私たちの認識するりんごと本来のりんごはその両方がりんごの影である。りんごのフュシスからすると私たちの思考した結果の認識であるリンゴのイデアは影であるが、私たちにとって永遠に把握不可能なりんごのフュシスもまた影である。