その26

 一瞬とは限りなく僅かな量の時間である。無限の小さくても、ゼロにならない数で示された時間は私たちの認識内には実在しない。厳密には認識内に実在しないとしても、存在としてはあるのか。一瞬といった概念があるだけで、具体的にどれほどの時間かは示せない。私たちは一瞬という言葉は知っていても、一瞬そのものを知ることはない。定義してしまえばそれでお終いだが、事実か否かは定かではない。

 認識する私たちは知っていると感じているものの、りんごを具体的にどこまで知っているだろうか。ある瞬間のりんごは失われた。続いて現れたりんごがある。その次も、またその次も。この世界内における私たちの措定性がりんごを一瞬、一瞬、把握する。現実に私たちは行わないが、世界の側からすれば、りんごが一瞬、一瞬の変遷にある。もっとも、世界が措定性を持つか否か。

 世界とは私たちのイメージする存在である。私たちは世界を措定することで世界が存在することを理解するが、あくまでも措定であり、実質的には世界は存在しない。措定とは止めることであり、運動し移り変わる世界は本来であれば、措定され得ない。動いているものに一点の停止もない。措定され得ない世界こそが世界だが、それは世界ではない。一瞬もまた実在しない。流れがあるだけだ。