その36

 りんごが一つの系であるとしても、りんごの実態は純粋なりんご性による構築ではない。りんごの実態は即、非りんごを含んでいる。完全にりんごではないものがりんごの成立のための何かであるとき、りんごであることはりんごでないことを完全に含有する。確かにりんごはりんごとしての内部性が原因である。りんごにはりんごであろうとする系が原因となっている。

 りんごが実在可能な場でりんごは実在するが、りんごが実在可能な場が存在するからといっても、つねにそこにりんごがあるとは限らない。状況が整っていても、りんごの系が存在しなければ、その場にはりんごは実在しない。りんごが存在可能な場は、りんごにより選択がなされている。そこにりんごがなくても、りんごが存在できる場は実際にりんごに選択されずとも、選択されていると措定することは可能である。この情報空間のなかに、りんごが実在可能な場と実在不可能な場がある。そこにりんごが在ろうとなかろうと、存在可能か否かがりんごにより選択されていると考えることができる。

 概略系として、この情報空間にはりんごを受容する場とそうでない場がある。厳密に切り分けられるのではないのは、りんごが実在可能かどうかは、はっきりと定められないことによる。りんごが実在している状況を完全に切り分けることはできない。いかなる状況を実在可能かと考えたとき、その定義はあいまいで、グレーな部分がある。腐敗の始まる場をりんごが実在できない場と言い切ることはできない。腐敗とは何か。その定義により腐敗が定められたとしても、その事実とりんごの実存をどう捉えていくか。りんごが実在可能と考えられる場であっても、腐敗はわずかにでも進んでいることが考えられる。まったき素の状態でりんごが実在するとは考えられない。なんらかの反応系であるりんごは一個の多様体である。りんごの姿が如何なるものであれ残存していればりんごは実在するとの立場に立てば、りんごの完全消滅が完全に予知される場をもって初めて、りんごの実在不可能な場と考えられる。

   りんごの存在は永遠ではない。いつしか消え去る運命にあるりんごはいかなる場にあっても実在の保証が完全にあることはない。実在可能と考えられる場であっても他からの介入があるのが現実だ。実在可能性とはある枠組みであり、概略系である。実在可能ば場は他を遮らない、存在の渦中での共有系である。概略系はその系であるといった意味で孤立系であるが、実際上は単独でその系が実在するのではない。場を規定したうえでその場に系を広げているが、他の系も同時に共有している。複層系が系の実態ではないか。