その29

 一瞬先とは何か。目の前には、立ちはだかった巨大な壁がある。越えようにも超えることの永遠にできない壁を、そうと気がつくことなく、生きている。ふ可能性を永遠に抱えていることが永遠の存在を実在のものとする。永遠はあるのか。私たちの実存的な不可能性が失われることがないことがこの存在の渦中に永遠があることを意味する。何かがあることばかりが永遠を意味するのではない。何かが永遠に欠落していることも永遠の実在を意味しないか。可能性である世界において、さまざまなことが現象し、存在となる世界に、存在となる可能性だけがあっても実在しないことが存在することが果てしなく続くとき、私たちは永遠の不在を発見するのではないか。

存在にとってまず先に時間の経過がある。時間の流れが存在しない限り、何もが存在し得ない。何かがあるとは時間の存在の支配下にある。存在の変容は時間の変容とともにあるのか。時間が変容することの内実が存在の変容ではないか。時間はそれでも実在するのか。時間が実在しない限り、何もが存在し得ないといった意味では時間は存在すると考えられる。とはいえ、時間の観念がなくても、存在が存在したっていい。存在はエネルギーであり、その変容がつねである。原初、何が実態的なのか。原初、何が概念的で、厳密は実態でないと考えられるのか。厳密には捉え切ることのできない時間はそれでも流れているのかもしれない。それとも、真っ先にある存在の変容に対してその変容を観念的に捉えるために時間といった観念をこしらえたのか。私たちの実存からすると時間の存在は疑いようのないことで、そこに問題はない。しかし、私たちのいない世界で、時間の感覚を捉えられることがあるのか。ひたすらなる変容があるだけで、時間はない。無限に小さな点は存在し得ない。世界は分割され得ない。一本の線すらも引けないのが存在のありようではないか。あらゆる停止を拒絶する存在はどこにも区切りがない。物質的な意味で区切りがない。しかし、実存する私たちにとって、その認識主体性からすると存在のありようは不連続ではないか。細切れにしか存在について知り得ないとき、存在の総合性に対して私たちは連続的な認識をもつことはない。不連続に認識される存在が連続する実態をもつ存在のありようではないか。