その46

    私たちの知っているりんごは、りんごと私たちの関係性それ自体ではないか。りんごを知っているのではない。徹頭徹尾、私たちがりんごについて知っているといったときの意味は、りんごと私たちのあいだに横たわる関係性のことである。私たちの知っていることは私たちの機能により知られているのであり、その限りでしかない。私たちは私たちの方法で存在について知っている。方法が違えば、知り得ることも違う可能性がある。何かを理解するとき、理解するための機能とそれにまつわる方法が必要となり、その事実は物質的な次元ではないか。機能をもとにした方法は物質的な実在であり、私たちのうちにもその差異はある。一個のりんごがさまざまに把握されるとき、それぞれがその時の真実である。一個の把握が真実であるというのは、私たちの変化の遂行から考えれば、ありえない。存在の広がりのどの部分をいかに捉えるか。その方法はそれぞれの数式によるなどする。一個の数式が捉える存在の姿がある。存在の造形を描く数式がある。運動する数を当てはめるなら、運動する造形がリアルタイムで描かれる。数と数のあいだには、数になりきらない何かがある。存在の造形については描き切れない部分があるのか、それとも数式において代入可能なことが数の実態以上の何かとして実在するのか。存在が数のうちに収まりきることのない実在であれば、数式では存在のすべてを明かすことはできない。数量的な把握を超えた存在があるのではないか。私たちにとって質感とは何か。何を意味するのか。