その37

 りんごが一つの系であるとしても、りんごの実態は純粋なりんご性による構築ではない。りんごの実態は即、非りんごを含んでいる。完全にりんごではないものがりんごの成立のための何かであるとき、りんごであることはりんごでないことを完全に含有する。確かにりんごはりんごとしての内部性が原因である。りんごにはりんごであろうとする系が原因となっている。

 りんごが実在可能な場でりんごは実在するが、りんごが実在可能な場が存在するからといっても、つねにそこにりんごがあるとは限らない。状況が整っていても、りんごの系が存在しなければ、その場にはりんごは実在しない。りんごが存在可能な場は、りんごにより選択がなされている。そこにりんごがなくても、りんごが存在できる場は実際にりんごに選択されずとも、選択されていると措定することは可能である。この情報空間のなかに、りんごが実在可能な場と実在不可能な場がある。そこにりんごが在ろうとなかろうと、存在可能か否かがりんごにより選択されていると考えることができる。

 概略系として、この情報空間にはりんごを受容する場とそうでない場がある。厳密に切り分けられるのではないのは、りんごが実在可能かどうかは、はっきりと定められないことによる。りんごが実在している状況を完全に切り分けることはできない。いかなる状況を実在可能かと考えたとき、その定義はあいまいで、グレーな部分がある。腐敗の始まる場をりんごが実在できない場と言い切ることはできない。腐敗とは何か。その定義により腐敗が定められたとしても、その事実とりんごの実存をどう捉えていくか。りんごが実在可能と考えられる場であっても、腐敗はわずかにでも進んでいることが考えられる。まったき素の状態でりんごが実在するとは考えられない。なんらかの反応系であるりんごは一個の多様体である。りんごの姿が如何なるものであれ残存していればりんごは実在するとの立場に立てば、りんごの完全消滅が完全に予知される場をもって初めて、りんごの実在不可能な場と考えられる。

 りんごの存在は永遠ではない。いつしか消え去る運命にあるりんごはいかなる場にあっても実在の保証が完全にあることはない。実在可能と考えられる場であっても他からの介入があるのが現実だ。実在可能性とはある枠組みであり、概略系である。実在可能ば場は他を遮らない、存在の渦中での共有系である。概略系はその系であるといった意味で孤立系であるが、実際上は単独でその系が実在するのではない。場を規定したうえでその場に系を広げているが、他の系も同時に共有している。複層系が系の実態ではないか。

 私たちの認識とは、いかなるものか。一個のりんごをある時刻で捉えようとしたとき、その一瞬ですべてを捉えることはできない。運動であるりんごの全体は私たちにとって現れてこないのではないか。りんごを止めて仔細に眺めるのではない私たちの認識は、りんごの部分しか捉えられない。捉えようとしたところで既に別のりんごが目の前にある。ぱっと一瞬ですべてが捉え尽くされることはないとき、りんごの全体は別のりんごの全体である。以降、私たちの認識がどこまで続いて行っても、りんごの全体は現れてこない。認識そのものもまた運動であり、認識の機能にも変容がある。純粋な認識の機能は存在しないし、純粋なりんごも存在しない。様変わっていくりんごと私たちの認識機能がある。

 りんごは立体である。立体をそのまま完全に認識しようとしたときにできることは何か。立体の内奥から表皮までその一切を捉え尽くすことはできるのか。内奥の運動とともに表皮もまた運動にある。いずれの箇所を取り出せば、立体の事実にたどり着くのか、答えようがない。止まることのない立体は私たちには平面としてしか認識されないのではないか。認識とはその限界のことで、物質本来の姿とは距離がある。そのものはそのものとして確かに実在しているが、そのものをそのまま捉えることのできない私たちは、その認識を現実とするが、現実はつまり、そのものを元にした幻影性である。そのものを真実としたとき、私たちに認識は非真実である。もっとも、そのことが嘘を信じているというのではない。私たちの実存からすると、見えるままが真実である。真実とは個別に存在するもので、一個の真実があるのではないのではないか。ある見え方が事実としてあるなら、その限りにおいて真実である。あらゆる見え方はその限りで真実である。ものは認識され得ずとも、そのものであり、私たちであっても、各人がどのように生きようとその痕跡は真実である。認識はそれ自体がどうあれ、ある領域内における断定であり、そのプロセスは紡がれた一瞬、一瞬を真実と考えられる。広がった情報空間のなかで起こっていることのすべてが起こったといった意味で嘘も偽りもない。誤った認識は存在し得るが、その認識をいったん持った事実は疑い得ない。何もがあるがままある。万事万物はプロセスの流れにある。取り出して眺めることはできない。流れそのものを流れるように見つめるのではないか。