その31

 私が一個の情報系であるとき、目の前にあるコップ一杯の水とどういった関係にあるか。私と水を包み込む系があり、私と水を隔てる系があると考えられる。ある領域がどれほどの系を包摂しているかは知らない。領域の設定とは私たちの認識の設定である。認識領域が存在するのは私たちが存在するからで、私が一個の認識をもつとき、その系の運動が世界観を構築する。私は運動であるのだから、認識領域も運動をする。認識領域の外に物質の相互性が生み出す系があり、そのうちのいずれかを捉えているのか、捉え切った錯覚を抱いているに過ぎず、私たちは私たちの認識領域を持つことで知覚の端を発する合理性が存在のカオスを秩序に措定し置き換えることで把握といった感覚を得ているのではないか。私たちが存在のありようを捉えていると感じられるのは、合理性といった感覚や秩序といった幻影が感覚的に備わっているからではないか。存在は私たちの認識領域以上の広がりを常にもっているのではないか。合理性の枠組み以上の広がりをもっているのが本来認識すべきことではないか。私たちはつねに私たちの認識結果を超えていく必要があるのではないか。私たちの認識はつねに運動の様子を描く必要があるのではないか。合理的であるとは動的な平衡のうえ実在するかりそめの結実ではないか。