その236

 りんごがなぜあるか、その原因となっている存在がどのようにあるか。そのりんごにはそのりんご特有の、関係する領域があるのではないか。そのりんごが存在する場はそれ自体が特有である。どこにもないそこだけの場であり、それゆえに、そのりんごの実在もまた特有となる。いかなるりんごであるかは、そのりんごのうちなる現象のみが影響を与えるのではない。そのりんごがそのりんごであることの意味には、遥か遠くの太陽の運動のいかんが関わっているはずだ。一個の太陽からもたらされる現象にはそれぞれ差異がある。それがなんであっても、存在はそれぞれが固有でしかない。固有性はそれ自体が秘めているのであり、表立って客観視されて把握されるものではない。起こっていることのすべてが複雑にからみあい、存在はその広がりにあるが、すべてがすべてとつながっているのではない。つながっている部分とそうでない部分がある。つながっている部分があることで、つながっていない部分がある。つながっている部分がその時点で確かに実在することをもとに把握される非接触性がある。関わり合う事実をもとに関わり合わない事実がまさに明らかとなるはずだ。

 ある一点を定めたときに、その一点とは無関係の領域があるのではないか。ある一点と関係のある領域があることで、その時点において無関係の領域が発生する。認識上の話でもあるが、そればかりではない。認識することがなくて、存在はその関係にあり、かつその無関係にあるのではないか。そういった状況が存在のうちに現象として秘められているのではないか。どうやっても繋がっていないことが、ある一点の実在にはある。その時、それでも、存在はその広がりのうちに一元的にあると考えられる。存在するものが存在するのであり、存在しないものは存在しないのである。存在するものが存在するといった一元的な把握において、あるものがひたすらあるための場とは一元的でありつつも、そのうちには、関係の無関係が宿されているのではないか。同じ箱のなかにあっても、関係のないことがあるだろうか。実際に確かめられた時、その確証をどこで得ることができるか。あるいは、状況は時間帯において変容する可能性にある。たとえば、関係性のすべてがもつ時間帯がかりにあるとしても、別の時間帯においては、無関係であることと関係することが一元的な存在の広がりのうちにあるとする可能性がある。つまり、存在がA的である時間帯があれば、それとは別種のB的である時間帯も実際にあるのではないか。少なくともそう考えることはできる。考えることができることはすべてが可能性として実在するより他はないのではないか。