その243

 存在はそのものが語っているのであり、それは私たちが把握して語るのとは別の次元にある。存在することそれ自体が語ることと、私たちがそうかもしれないと思い語ることがある。存在において起こっていることをリアルタイムでそのまま語ることができない以上、私たちのロゴスは存在の実質とは別の次元にあるというより他はない。ロゴスはある。存在のうちにある。それは岩が転がっているように、ロゴスが転がっていることを意味するのではないか。

 ロゴスとはその全体として個物と考えられないか。もっといえば、言葉を用いて表現されたことはそのすべてが存在の流れのうちにあり、かつ、その流れを捉えようとして、確かに齟齬がある状況であり、空の浮かぶ雲の如く、存在の流れのうち浮かんでいるのではないか。岩があり、風が吹き、雲が流れていくのと同じ次元で言葉がある。言葉で捉えられた現実がある。

 言葉がどこにあるのか、それはそれぞれのところにあるというよりないが、それは、岩がどこにあるのかを問い、それぞれのところにあるというのと同一である。この時空間において存在するものがすべてでそろっているのであり、言葉だけが特別何かというのではないのではないか。生きるに大切なことなら、言葉以外にもたくさんあるうえに、そもそも生きるに大切なことがどれなのかを存在のうちからはっきりと定め切ることができるのか。

 言葉があり、海があり、川がある。相互に係りあっているものがあり、かつ、関わり合っていないものもある。物質的な現象として、川が海との関連にあるように、物質的な現象として、言葉が海のあり方への影響を与えることがある。言葉がどう転がっていくかで海のあり方が確かに変容するとき、この時空間で言葉が海と確かに繋がっていることを意味する。情報の広がりが存在のあり方のすべてであるとき、言葉としての情報が海としての情報へと働きかける。海もまたそれ自体が情報として言葉に働きかける。言葉だけが存在の流れのうちから外れて実在しているのではない。