その234

 存在はそのものにより表現されている。存在がそこにあることがその存在の意味である。しかし、そこにあるものがそれだけの意味を持つのではない。そこにあることがそこにないものへと影響を与えると同時に、そこにないものからの影響を受けている。そこにあるものがそこにあることだけの意味を持つのではないとき、そこにあるものがそこにあることで、どんな意味を持っているのか、その全体は存在しないのではないか。その全体は存在しないが、ある領域は存在するのかもしれない。そこにある何かがそこにだけ意味をもたらしているのではないとき、そこにあるものの意味はそこにあること以上の広がりをもち、かつ、その領域内にある。つまり、何かがそこにあることの意味とは領域内において実在する。であれば、一個のりんごとは領域内存在であると言えないか。一個のりんごの実在はそのもの以上の広がりをもった実在であり、その領域のうちにあるといった意味で、一個のりんごは領域内存在である。

 りんごが一個そこにあるとき、それは単独でそこにただあるだけではない。かりに、りんごがそこにあることはそのうちで完結した意味しか持っていないとすれば、それは個物主義と呼ぶことができる。古物主義とはそこにあるものそれ自体で意味が閉じているとをいう。個物主義的な発想は、存在の複雑さのうちにある存在の意味がないがしろしにされる。りんごはそれ自体が関係する現象のすべてを含んだ領域内存在である。そのものであることは、そのものであり得ているのであり、実在可能となるための領域内にあることが、そのものをあらしめているのである。

 領域内存在であるりんごに対して、領域外存在とは何か。それは無ではないか。あくまでも存在について語るのであり、領域外存在とは、存在する何かがその領域外の影響により実在することを意味すると考えたとき、それは無について語ることになる。一個のりんごは関わりのある現象をすべて含んだうえで設定される領域内に実在すると考えたとき、その外にはそのりんごに影響を与える何かは実在しないのであり、りんごのとって関係のないことはそれが存在しても、りんごにとっては無ではないか。いや、りんごのあり方にまったく影響を与えていないとしても、その存在があることが存在の全体を構成する要素となっているのだから、それは欠くことができない。パズルのピースがひとつとして欠けていないことで全体ができあがる。関係のないことでも、それがなければ存在は即刻、その破綻にあるのであれば、領域外存在の意味すること、つまり、ナンセンスと考えられることもまた無であると考えられたとしても、その意味をもたらす。一個のりんごは領域内存在でありつつも、領域外存在でもある。領域とはそれが設定されたとしても、その内と外の往還にあるのではないか。動いているものの領域は変動的である。領域外存在でありつつも、領域内存在であるりんごは幻のようである。むろん、幻と考えられるのは私たちがりんごを認識しようとするからである。認識しようとしてできないことが存在を幻にするのであり、その初めにおいて、あるものはあるのであり、そのいかなるかは認識を超えた実在であり、幻ではない。