その237

考えられることはすべてが可能性となるのか。それとも、考えられることであっても、可能性としてはゼロの場合もあるのか。たとえば、人間が海の底で500000000年眠ることを考えることはできる。あり得ないと思われることであっても、考えてみるべきであり、考えるための情報の精査がそこにはある。さまざまな情報をもとに考えてみると、最初はあり得ないと感じられていたことが可能性ゼロではないことに行き着くことがないか。そのぐらい、わからないかもしれないのだ。

 そもそもにおいて、私たちは永遠について考えることがある。永遠をイメージすることがある。ありえるはずがないとっても、それでも考えることがある永遠について、それは、可能性としてはゼロではない。あり得ないと感じれることが考えた結果、絶対にあり得ないわけではないことにいきつくのは、考えるといった営みがあるからであり、それは私たちの本能ではないか。生きることにおいて考えることがのっぴきならない素性として各人に備わっているのではないか。常識的にはあり得ないことがあり得るかもしれない。常識とは、一般に流布している話であるが、そのことについて一度考え始めることで、その常識は現実と整合しないこともあり得る。

 可能性がまったくないことを挙げてみたい。存在するだろうか。この世ではなく、あの世があるかどうか、定かではないとき、死んだ人が蘇るかどうか、それはわからない。魂があるなら、蘇る可能性はあるかもしれないし、ないかもしれない。きょうび、知られている存在のあり方以外にも存在のあり方があると考える方が妥当に思えるとき、何が起こってもおかしくないと言えなくもない。知らない存在のあり方があることを前提にした時、その知らない存在のあり方における存在のあり方は私たちの一般感覚では捉えられない状況にある可能性がある。その可能性はつねにあると考えるべきではないか。

 可能性について考えることはすべてを受け入れることでもある。考えてもわからないことすらも含まれているのが可能性かもしれない。まったく感知しないこともまた存在するものごとのうちに含まれて起こっているかもしれないとき、私たちは徹頭徹尾、わからないことがまっさきにあることを認めるしかない。分かっていることは確かにあるがそれがいかに微量であるか、そのことに思いを馳せた時、途方もない感覚になる。全く知ることのない存在のうちに含まれて、何をやっているのだろう。