その242

 何かを認識するとき、それはその判断のことを意味する。その判断とは、切り取りの可能性がある。切り取るから認識できるのではないか。認識はそれが何であっても、断片なのではないか。存在の全体があるなかで個別の事象について認識をもつとき、個別の事象とは何を意味しているのか。

 存在はその流れのうちにあり、断片ではない。断片的にあるものの周囲が虚無というのではない。常に何かのあいだにある。何かのあいだにある断片はその運動を内側からのものとするとともに、その外にも、その断片を制御する力が実在している。個別の事象とはそう考えると、起こっていることを意味するのだから、物質レベルでの断片だけが、個別の事象ではないと考えられます。起こっていることの全体が仮に存在するとして、その起こっていることの全体を個別の事象と考えるべきではないか。であれば、個別の事象とは、一個のりんごについて考えると、その物それ自体だけを含むのではなく、そのものそれ自体と関係することで起こっていることの全体を意味し、それはりんごがそれ自体で領域を所有していることを意味するのではないか。

 りんごとは存在するものごとのなかで起こっている解釈のうちのひとつではないか。存在を解釈した結果、いっこのりんごが生じたのではないか。それそのものとは単に、その外部から認識されるだけのものではない。それ自体が存在を解釈し、認識する主体として実在するのではないか。私たちが存在を認識するように、りんごもまた存在を認識している。そしてさらに、存在すること自体が存在についての認識を表現した結果として、実在しているのではないか。であれば、存在はそれが何であっても、存在の認識の結果としての姿を現しているように考えられる。りんごがそこに一個あることはそれ自体が存在を認識し、独自に解釈をした結果を意味するのではないか。認識と解釈の違いをはっきりさせたい。いずれもが、主観的に行われることである。存在を認識することと、存在を解釈することの違いは、前者が、何かをただ把握することであり、それは客観的な側面がつよい。一方で、後者の解釈となれば、客観というよりか、より主観的な側面がある。いずれもが主観であるが、そこに客観的な把握を取り入れることが認識であり、解釈とは、それでも客観的な側面はあるが、存在をさしあたりその主観で理解することを意味するのではないか。では、りんごがそこにあることはん存在を認識した結果なのか、解釈した結果なのか。それはいうなれば、両方の側面がある。起こっていることは認識により起こっていると考えられるとともに、解釈することで起こっているとも考えられる。いずれか一方に決める必要性はない。起こっていることが起こっているのであり、それがいかに起こっているかについて把握するとき、それはさらにいえば、もっと知られていない現象が起こっている可能性がある。

 いずれにせよ、りんごがそこにいっこあることは、それ自体が存在を解釈し認識した結果の姿としてある。言葉が認識や解釈の結果を表すと考えがちだが、言葉以前にあるのがものである。ものが先にあることのほうが真実ではないか。であれば、ものがあることが意味することをまず把握したい。言葉より先にである。物自体を観察することで、そのものを受け止めることがどこかまで可能か、それははっきりしないが、しかし、存在のピュシスとしては、そのものがあることが存在を何かしら認識し解釈などした結果として、その姿である。その姿が語っているのである。