その239

 存在はそのすべてが出そろった状況にある。そのうちの何かを知っている。知っているのはしかし、部分に分けることで知られているのであり、部分に分けることをしなければ知ることができないとき、知ることができるのは欠片でしかないと考えられる。欠片は、それ自体知られることで知ったことになる。知っているとは何か。いかなる状況を知っていることと考えることができるのか、それは時々かもしれない。時々で知っていることの意味が異なるとき、知っていることそれ自体が存在においていかなる状況においてのことなのか、それを把握することが断片的な知識をしっかりとしたものにするために必須ではないか。

 たとえば、りんごについて知っていることがあるとき、それが存在にとって何を意味するか、それもまた知りたいところである。つまり、りんごがりんごであることが存在にとってどんな意味を持つのかについて考えることもまたりんごについて知ることである。りんごがどんなものなのか、それを知るだけではりんごについて知ったことにはならない。りんごがりんご以外のものにもたらすものがある。りんご以外のものにりんごがもたらす意味はりんごに属している。りんごが実在することがもたらす意味の全体がりんごの領域である。領域内存在としてのりんごはその領域の外とは無関係であると言えもし、かつ、それでも完全に意味が途切れているのではない。存在はそのすべてが出そろっているのであり、いずれかの部分が欠損してしまえば、全体が崩壊してしまいかねない。りんごが実在するためには存在の全体が安定的にあることが求められるとき、りんごと関わりのある領域の外の状況もまたりんごにとっては意味をもつ。意味をもつが関係のないことがある。関係のある、ない、とはつまり、意味があるか、ないかではない。その実在がもたらす意味の運動が届く領域をして関係があるとし、その実在の意味の運動が届かない領域を関係ないと考えることができないか。