その246

 りんごはりんごであることと、りんごでないことのあいだにある。りんごはりんごであって、りんごではない。りんごであるりんごはそのりんごではないことを含み込むことでそのりんごたり得ている。りんごではないがりんごである何か、それはそのりんごにとっては欠かせない何かであるが、りんごはその何かについて完全に捉えているのか。まったく感知していない何かがそれでもそのりんごにとっては欠かせない何かとして実在しているのか。りんごはそのりんごが知っていること以上の何かに含まれた実在なのか。そのりんごであるために必要なことは絶対的ではない。最小限どの必要性さえ満たしていれば、その実在にとって必要なことを含んだ領域はその曖昧にある。厳密に算出される絶対性がそのりんごにとって実在するのではない。何でもいいわけではないが、りんごがその存続にとって関係できることはいくつもあり、それらいずれであっても、そのりんごと関係を築くことが可能である。りんごにとって、その存在のために都合が悪いこと以外、そのすべてがりんごと関係可能である。関係可能な何かがいくつもあるとき、りんごは存在のうちにその実在可能性をその分だけ所有する。

 りんごにとって都合の悪い何かとは一緒にその存続ができないとき、存在のうちにはりんごが実在できない領域がある。実在可能な領域と、実在不可能な領域が、いっこのりんごを基軸の据えたときに、存在のうちに実在することになる。存在のあり方について考えた時、その関係性について考えることになる。無限の関係性は実在しない。有限の可能性しかない関係の実質的な領域が存在の一切を占めている。存在の実在の仕方は有限である。組み合わせのよくない物同士が反応して一緒になることはないとき、存在のあり方もまた限定される。起こり得ること起こりえないことがある。むろん、存在の物質性もまたその流転にあるのか。性質が変わっていくこともまたあり得ると考えられる。存在の物質性はその長きにわたる時間において、その変遷にあるのではないか。それでも起こりえないことは起こりえない。といというか、推論上、起こりえないことが起こらないのではない。それは起こりえるかもしれない。起こらないことがたんに起こらない。起こったことは覆らない。起こったことは起こってしまったことで、そのうえにまた起こることがある。起こっていることのはたして順番があるのか。あるのであれば、起こっていることが一個ずつ起こっていると考えるより他はない。起こっていることは果たして、その細部において全体を持つのか。認識上その全体があるように感じられたとしても、実質的にそれは起こっていることの全体なのか。起こっていることはその関係性において生じた結果であり、それは何か一個の個物のようなものではないのではないか。川に水が流れているとき、何が起こっているのか。そのうちから何かひとつを取り出して語ったとして、その現象がその語りのうちで閉じているのではない。起こっていることを認識してもそれは不完全でしかないのではないか。起こっていることの全体はつねにそれ以上の何かである。そのはずであるが、それでも起こっていることに順番があるような感覚に囚われるのはどういったことが原因か。