その248

 起こっていることがあると捉えるためには、起こっていることが限定されなければならないのではないか。認識とはその限定によるのではないか。限定することで認識を獲得することができるのではないか。何が起こっているのかを具体的に把握するためには、何かにフォーカスする必要がある。その具体は、フォーカスすることで生じるが、存在の流れのうちにある万物はその関係性のうちにある。具体とは何か。一個の具体はそれのみにあらず。関係性のベールがかかったうえで存在する一個の具体は、抽象的であるはずだ。

 存在の流れのうちから、その象を抽いた存在とは、認識上のものではないか。認識上にある具体は、存在の流れのなかから、その象を抽きとったことで現前するのだが、それそのものは関係性のベールがかかった状況にあり、そのものの有様は具体といっても不完全でしかない。抽象に対して具体といったとき、その有様ははっきりとした感があるかもしれないが、何かを具体的に捉えたからといっても、それは抽象の粋をでることはない。はっきりとそれそのものの有り様が炙り出されることはない。どこまでいっても、私たちの認識は抽象的でしかない。具体的に考えていけばやがては抽象的になる。具体的だと信じていることがむしろ、抽象的な発想と考えられないか。