その245

 それ自体はそこにある。ただそこにある。そのことが物語っている。そのことは、そのものそれ自体を超えて物語っている。そのものはそれ自体以上のことを物語っている。そのものがそこに存在することが、そこに存在しないものについても物語っている。りんごがいっこテーブルのうえにあれば、それはそれそのもの自体として、それ自体について語っているのと同時に、それ以外の何かについて物語っている。

 そのものそれ自体が物語っているのは、そのものそれ自体であり、その物それ自体以外であり、そのことはそのものを底に据えたうえでの関係性について、物語っていることである。関係性について物語とき、なんらかの実在を底に据えなければならない。いや、そうせずには関係性を認識できないのか。しかし、何かを底にしたうえで捉えられる関係性は、何も底に据えることのない関係性と異なった意味があるのではないか。

 ピュシスとしてあるあらゆる関係性を捉えるとき、それは何かを底にするなどして、その中心を定めて捉えるより他に捉え方があるのか。脱中心化した認識は実在可能か。何かを基軸に据えた認識は、ほんらいあるはずの関係性の姿ではない可能性がないか。何かを主軸にすえたうえで関係性を認識するとき、主軸との相互作用について、その関係性を捉えることとなる。

 りんごについて、その関係性を捉えるとき、りんご以外の存在もまた、その認識においては主軸であるはずだ。であれば、関係性を捉えることとはほんらいにおいて、脱中心化がその本質ではないか。存在の一切をフラットに捉え直す行為が関係性を認識するときに行っていることなのではないか。

 私の認識しようとするりんごはその関係性のうえにある。ある領域のうちにある。その領域のうちで繰り広げられている関係性について理解することがそのりんごのついて理解することだが、そのりんごについて知ることはそのりんごの関係性について、脱中心化したうえで理解することであり、それは、りんごを通じて存在について理解していくことを意味する。

 その領域内にあるりんごはその領域内のすべてがそのりんごのことである。りんごについて関わりのあることが起こっている領域はそのすべてがりんごのことである。りんごのこととは関係のないことは一切含まれないが、その領域の含まれ、起こっていることは、同時に他の何かの領域である。りんご自体が他の何かの領域に含まれ、それがりんごとして起こっていることが他の何かの存在にとって意味を与えている。