その250

 真理であることとは何か。絶対の真理であることとは、絶対である以前に、問いなのか。問いとしてしか真理は存在しないのか。かくかくしかじかが真理であるといった断言が一切の問いを受け付けないことはあるのか。つねに真理は問いと向き合ったうえで実在するのか。あらゆる問いに対してまっとうな答えが用意されれば、それはすべて真理なのか。真理とはつまり、部分的に真であることを意味するのではないか。部分的に真である真理が存在することが真であり、存在の全体にあてはまる真理は、その不在をもってして真理とするのか。

 存在し、それがいかにあるかについて言葉を用意することでそれが真理である可能性をもつが、存在することなく、それがないことにおいて、そのなさについてもまたそれが真理であると述べることはできる。真理であるか否かとは、言葉になって表現されるか否かである側面をもつが、言葉にならない真理もまた実在する可能性にある。起こっていることは起こっている。それが確かにそのように起こっているとき、それは確かなことであり、まぎれもない事実であり、それを真理と呼んでも差し支えない。であるとき、存在することにおいて起こっていることのすべてが真理であるといえる。真理として実在するから、何かがあるのではないか。存在歯その存在していることのすべてが真理である。何か一つの普遍を求めることが真理の意味ばかりではない。りんごが一個テーブルのうえにあることもまた真理である。そのすべては言葉にならないが、むろん、その言葉になりきらないこともまた真理であり、ただ何かがそこにその姿で実在することが物語ることは、何かを言葉で捉えて述べること以前においてすでに真理である。存在はそのピュシスにおいてすべて明らかになっている。ピュシスとはそのすべてが真理のことである。

 存在することともに、存在しないこともまた認識することのできる私たちの実在におけるその精神が所有する状況もまた真理である。ありとあらゆるものごとを含んだのがピュシスであり、それらすべて、存在すること、存在しないこと、私たちのみならず、生き物がそれぞれ持つ精神のうちにあるイデアもまた、ピュシスである。ただあることを指すのではない。イデアとして考えられた物事は確かに実在するのであり、存在のうちにある。決定的に存在しない何かもまた、それが不在であることをなんらかの精神をもとに発見されているなら、それはその事実としてある。あらゆる幻はそれがイメージとして捉えられているなら、実在のものと考えられる。ピュシスの意味するところが、ありのままの状態であるとうとき、ありのままにある状況とはたんに何もかもを含むのであり、そこではあらゆる否定は不在を意味しない。否定もまたありのままの状況における実在である。否定を含まないありのままは実在しない。ありのままあることは、存在する物事がいかなる姿であろうと、それらすべてをそのまま受け入れる立場であり、それ以外に、ありのままの意味するところはない。完全なるピュシスとはあらゆるものごとを含み込んだうえで、それらすべてを真理とする態度のうちにある。あらゆるものごとを受け入れ思考する精神にこそ真理が宿るのではないか。