その247

 認識を基軸におけば、起こっていることに順番ができる。これが起こったあとに、あれが起こると把握することができる。しかし、存在の動きのあらゆる姿をもとにしたとき、その次元において決まった順番があるといえるのか。順番があるかないかとはつまり、その反復があるかどうかのことか。存在の動きにおいて定型的な動きがあるとき、そこにはまぎれもなく順番があるといえる。科学的な事実、たとえば、水を冷たいところにおけば氷になることは、なんどでも繰り返し起こる。その起こっている状況についてはその定型にあるといえ、それは順番があることを意味しているのか。順番があるなら、その反復が存在することだけでいいのか。反復はするが、そもそも、存在の一切が反復するわけではない。存在はそのカオスにあるのではないか。反復の現象もまた、その細部においては違いがあり、起こることは一度しか起こっていないと考えられる。純粋な三角形が存在しないように、反復もまたその純粋さを持たない。大枠では同一だが、それぞれ細かく異なっている。そうしたとき、起こっていることには順番があるのか。存在の反復性においては、定型的なものごとの起こり方があり、そこには定型的な順番があるのかもしれない。いや、反復するのだから、起こることには定型的な順番があるとしないと、落ち着かない。科学的な事実において、それが起こるには、存在がそのように振る舞わないといけない。順番をきっちりと守ることがその存在の反復を意味する。しかし、科学的な事実は私たちの認識内存在である。存在はつねに認識内にあるのではないか。思う以上に複雑な連関にある可能性にある存在において、その起こっていることに順番があるかないかを考えるとき、存在がどのようなからくりで起こっているのか、その全貌を把握することなく、順番のあるなしを決めることはできない。何が起こっているのか、それがはっきりとしないうちには、存在に順番があるかないかを決めることできない。であるとき、存在を認識する限り、その状況はカオスにあるというより他はない。カオスには順番がないのではないか。