その241

 存在の全体を制御する力が実質的に働いているのか。それとも、個別的な意味的連関が相互に繋がっては途切れ、その意味的連関を構築していく、そのプロセスが存在のありようなのか。つねに不完全でしかないのか。それとも、つねにできあがったうえで、そこからさらに構築されて行っているのが実在なのか。

 存在の全体を制御する力が実在しなければ、それでも存在は広がりといてある事実からすると、繋がっている部分と繋がっていない部分が存在の地平に広がって実在している状況とは、カオスであると考えられる。カオスとはバラバラの状況である。その全体としてあるにはあるが、そのすべてがつながっていない状況をして、カオスと呼べる。個別には秩序があるかもしれないが、個別を集めるとまとまりがなくなり、そのことをカオスと呼べる。

 カオスが実在するのではない。私たちの認識においてカオスといったバラバラの実情が発生するのではないか。存在の全体がいかにあるか、それは分からない。全体を制御する力が働いているなら、その秩序にあると考えることになるかもしれない。制御された存在の全体なのか、未制御の状態でも存在はその全体として実在するのか。それは存在の全体が明らかにならないと判断のしようがない。存在の全体がどこまで広がっているか、それは誰にもわからないうえに、全体とはその変容にある。不連続にあるのであればなおのこと、全体は把握不能である。

 全体とは何か。それは認識上においてはあるかもしれないが、ないかもしれない。捉えた何かそれ自体がその全体であったかどうか、それを判断する根拠がどこにあるのか。全体というよりか、限界ではないか。もっと広がっているはずの存在の全体と感じて把握したことが認識上の限界のことではないか。認識における限界のことをそれぞれの認識主体が全体と考えて把握しているのではないか。認識領域がある。認識可能領域以上の広がりにあるのが存在であるとき、認識の限界をして、その全体としているのではないか。