その192

 ある花があって、その意味について考えたとき、あらゆる言葉を尽くしたとしても、その花の意味のすべてを語ることはできない。言葉の意味以上にあるのが、その花の意味ではないか。どんな意味があるのはわからないほどにあるのが花の意味ではないか。ありふれた花を見たとき、その特異さに気がつかないことがある。ありふれた川もまたその意味を深く持つ。存在はそれが何であれ、そのものがそこにあること以上の意味の広がりをもったうえで存在するのではないか。

 森を説明しようとしたとき、その全体は実在可能か。刻々と移ろっていく森を仔細に説明することは可能か。森が森であることとは何か。どうやって森は出来上がっているのか。森のうちなる関係性には森の外部からの関係性が関わってくると考えられる。森は森でないものから出来上がっている。森の中を流れる川は森の外部にある。しかし、それは森の一部である。森の中を通っている水だけが森に属しているとかんがえるべきなのか、それとも、森の外にある水もすでに森に属していると考えていいのか。森の存在のためには森の未来がいる。いまだ森の中を流れていないとしても、やがては森を流れることになる水はいつ森の水と考えられるのか。

 時間の流れのなかにあるのが万物である。時間の広がりを持たない存在はない。あらゆる存在は時間の広がりをもつ。時間の流れのうちにある川はその現在だけの存在ではない。過去と未来のあいだにある現在は過去と未来との関連のうちにある。未来がどうあるかで、現在がどうあるかに関わってくるが、未来は実際に存在するのか。現在を基盤にできあがる未来は、現在がそう起こらないことには、出来上がらないと考えられるものの、現在はつねに存在するのだから、同時に未来はつねにあると考えられる。つねにある現在を基盤にして存在する未来はつねに可能性として実在する。可能性としての未来はつねにある。

 森の現在において、その未来がある。森には現在があるのだから、未来がある。森の未来は探せど見当たらないが、ふりしきる雨粒のいずれかが森を流れる川となるとき、明日の雨のいずれかは、森に属している。まだ起こっていないのだから、可能性として森に属しているのであり、あらゆる現在は可能性を所有したうえで存在する。可能性をもたない現在はない。現在とは、現にそこにあるものがその変遷先を模索しながら、その運動にある。動的である現在は定点を持たないのであれば、現在それ自体が私たちの認識のうちにおいては可能性としてしか実在しないのではないか。現在がいかにあるか、それ自体が未来と同じように可能性なのではないか。定まった現在は存在しない。その蠢きにある現在は認識する私たちにとっては可能性でしかない。

 現在とは何で、どこにあるのか。存在の側に立って考えた時、それははっきりとあるのか。存在はそれらがあるがまま実在しているのであり、いかにあろうと関係のないことで、ただひたすらにあるものがそのようにある。その定めをもつことのない現在は広がりの中を動いているのか。広がりはどこまでの広がりなのか。現在を規定し切る広がりがあるのか。未来でもなく、過去でもない場を現在と考えていいのか。存在する場はすべてが現在において実在するのか。場は未来にはない。過去にもない。場の存在はそう認識される限り、すべてが現在ではないか。認識される場のすべてが現在なのではないか。物質としての場といった意味で存在し、私たちに現実的な知覚を得ることの可能な場はすべてが現在なのではないか。

 水を飲んだとき、どんな現象が起こっているか。口に含んで喉を流れていって、胃にはいっていく一連の流れはすげてが現在において起こっていく。あらゆるプロセスは現在に起こっているのではないか。起こっていることが現実になるのはすべて現在においてではないか。過去はどこかにあるか。触れることのできないかつての情景はどこにも実在しない。終わったことは蘇ることはない。すべて一瞬のできごとだ。再現不可能なその一瞬、一瞬がある。あらゆる差異の総体でできあがっているのが万物ではないか。