哲学日記

ラビリンス

その182

 思考とは何か。考えることだが、考えることとは言葉をあやつることか。言葉で操るのは言葉だけか。言葉を操るのではなく、言葉で存在を操るのでもなく、存在のあり方がさきにあるのだから、その底では存在が言葉を操っていると考えるほうが妥当ではないか。存在の仕方にあった言葉が紡がれるべきで、存在の仕方にあっていない言葉の姿は空語でしかない。架空の物語なら、楽しめるが、存在を仕方を説明ようとする言葉なら、それが存在に適合してないのであれば、その言葉は虚無ではないか。いや、それでも、その間違いがもとになり、新たなに認識を得ることがあるなら、空語もまたプロセスの一端か。間違ったことを書くことで気がづけることある。書いてみないとわからないとき、そこには空語が含まれるのは当然か。私たちの認識において空語は日常ではないか。空語抜きの言語活動はあり得ない。言葉のどれが存在に適当かを精査していく営みが言葉との付き合いではなか。つねに正しいことばかりが言語空間にあるのではない。空語を含んだうえで存在するのが言語空間であるとき、言語空間はその全体としては不合理となる。合理を含んだ上で、全体としては合理の枠を超えた実在なのが言語空間ではないか。