その200

 存在はカオスであるとか、秩序だっているとかといった定義とは関わりをもたない姿であるのが本来的な存在のあり方ではないか。カオスであると捉えることができるのは、カオスといった認識を私たちが精神のうちに所有するからで、秩序もまたそうした捉え方を私たちが所有することが元にあるのではないか。存在はほんらい定義される以前の在り方にあるのではないか。カオスでも秩序でもないあり方をあるがままということができる。あるがままとは一切淀みのなさであり、言語の定義の一切を受け付けない姿ではないか。認識以前にある在り方が存在の実質であるはずだが、それがどのようにあるか、認識することはできない。剥き出しの存在は見えないし、聞こえない。何かを聞くときそれは私たちのフィルターを通した音を聞いているのであり、対象の素の状況を聞いているのではない。

 認識とはだから、一個の世界を構築する機能であり、その事実とは実存的であり、私たちは止むを得ず自らの機能に由来する認識をもとに存在のあり方を探っている。どうしようと、みずからの機能から逃れられない。存在の認識とは畢竟するに、自己認識のことである。