その191

 何も知らなくても、生きていることはできる。知っていることの意味を言語化されたものとしたとき、言語化されたことだけを知っているのではないことがいえる。言語化されずとも、何かをみているとき、それがそう見えていることは知っているだろうし、何かの香りがしてくれば、その香りそのものを知っている。その香りを言語に置き換えるか否かがそこにはある。言語に置き換えられた状況だけを知っているのではない私たちは、言語空間とともに非言語空間に生きている。その間もある。言語と非言語が相互にまざった空間もあるのではないか。いえば、純粋言語空間はあるか。純粋に言語だけでできた空間には言語だけがある。しかし、言語だけがある状況には、言語がさし示す状況が実在しないと考えられる。言語とはそれが指し示す状況とセットになったうえで実在するのではないか。言語だけがあるようだと、どこか現実感を欠く。文字の羅列だけがあっても何のことか判り難い。いや、小説は文字の羅列だが、言葉には意味があり、それらを構築していくことで全体として深い意味を獲得することができる。一個のイデアを生むことができる。では、小説は純粋言語空間か。それが架空の話であっても、やはり言語が指し示す具体があるはずで、それ故に現実感のあるほら話が成立する。

 言語は感情へと働きかけをすることで、現実感を獲得するのではないか。感情が作動することが言語が無味乾燥とした記号ではなくて、現実感をもつのではないか。感情を経由することが言語に命を与えるのではないか。言語はこの意味でそれが純粋であっても、理性的なだけの存在ではない。感情といった大海に投じられることでその意味が浮かび上がってくる言語はその出所を感情に定め、かつ、理性で制御するのではないか。感情をコントロールするのが理性であるとき、感情が出どころの言葉もまた理性でコントロールされることで社会化されると考えられる。言語は共有されることで意味をもつ。言語を共有することとはそのまま社会を生きることを意味しないか。私たちはその領域の大小があっても、言語を共有しながらその営みを送っているのではないか。言語を共有することとはともに生きることの証であり、欲望的な感情的な言語が社会化されていくプロセスそのものが人の社会化と同期する。公を生きる個人はその言葉を社会と共有しながら歩んでいく。いかなる個人の言葉も他者の介在がある。その価値があってこそ意味がある言葉は、その価値を社会のうちにあると考えるべきで、社会のうちで価値を持つ言葉に言葉の真価があると考えられる。なぜ言葉を発するのか。それは他者と何かしらを共有することを意味する。なぜ共有しようとするのか。共有することなく生きることの何の意味があるか。ひたすら個人的な価値を個人だけで所有することのなにの意味があるか。個人をどこまで貫いてもその先がない。他者、それは過去であり、未来でもある。時間のなかで生きる私たちは言葉を共有することで、時間をともにすることができる。生きた痕跡が言葉に込められる。その意味は言葉の指し示す内容以上の価値があるのか。言葉の意味は言葉の意味以上のひろがりをもつ。言葉の意味にはその指示内容以上の意味がある。花が咲いている。その意味は何か。言葉がある。その意味は何か。